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by jinsei1

6月13日 短夜

「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」
(みじかよや ちちぜりなくこを すてちまおか) 
竹下しづの女(じょ)。
6月13日 短夜_a0009666_81887.jpg 恵まれない環境での子育てに、女性の立場でやりきれなさをあらわしたのがめずらしい。大正九年の「ホトトギス」巻頭句。
有職夫人による男女機会均等等の運動が起こりかけた時期の先駆的一句である。「乳飲ます事にのみ我が春ぞ行く」等の句もあるが、自我意識を露に詠出することで俳壇の抵抗もあった。「俳句でも自己があり、自己を表し得るものだと知ったので始めた」俳句であったが間もなく挫折と回想している。一時は句作を中断するが昭和八年には復活し、「汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍(ご)す」等の句を詠んだ。
1887~1951 福岡県生まれ。「ホトトギス」同人。by村上護。

★梅白しかつしかつしと誰か咳く

昭和十五年作、『定本竹下しづの女句文集』(香西照雄編、昭三九、星書房)所収。以下これによる。亡き夫の面影につながる長男吉信は、不幸にも肺結核にかかった。

「吾が子病む梅のおくるるの所以なり」

「梅おそしし子を病ましむる責ふかく」と彼女は自分を責めてやまぬ。「かつしかつし」の音が、結核患者特有の乾いた咳を表現し、「梅白し」に呼応して病む子をもつ母の切なさを伝える。当特の借核には、もとより特効薬なく、体力をつける食糧もも不足、母にとってはは辛い日常であった。ついに昭和十九年秋には入院、翌二十年八月五日、終戦の日を待たず吉信は逝った。吉信三十二歳、その母五十九歳であった。
by竹下しづの女  上野さち子  岩波新書  「女性俳句の世界」より

 子といくは亡き夫(つま)といく月真澄

 昭和十三年に、しづの女はこんな俳句を詠んでいる。しづの女と言えば大正九年に「ホトトギス」で女性として初の巻頭となった〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)〉をはじめ、〈汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す〉など、通俗的な女らしさを否定するかのような気性の激しさをうかがわせる作品ばかりが有名だが、掲句は一寸違っている。この句の主人公は、亡き夫の面影を重ね合わせていとおしんだ、かけがえのない我が子である。その我が子に先立たれた時の悲嘆は、当然のことながらきわめて激しいものであったろうと推察される。
 「私は竜骨(★長男吉信の俳号)を失って一生の大部分が徒労であったような気持がして、欲も得も捨て去って五年間を精神的虚脱状態にて生きてきました」
 これは、しづの女が晩年まで指導に心血を注いだ学生俳句連盟「成層圏」の弟子であった香西照雄に宛てた戦後の私信の一部だが、香西自身が述懐(「成層圏と竹下しづの女」俳句研究・昭和三十六年一月号)しているように、気丈という印象の強いしづの女には珍しい弱音ということになるだろう。私信ゆえの率直な心情吐露である分、かえって胸を打たれるものがある。しづの女が本特集のテーマである昭和二十年はもとより、戦後二十二年までは完全に句作を絶ってしまうことになった理由の一半に、この吉信の死があったと見て大過ないであろう。
byしづの女の沈黙(「俳壇」1995年8月号・特集昭和俳人の「八月十五日」)

「短夜の肺病やみで長男を亡せて」
(みじかよの はいびょうやみで こをうせて)
山根尽生。

★明日6月14日の一句 
「明易き夜を身の上の談(はな)しかな」  井上井月(せいげつ)。

by jinsei1 | 2005-06-13 07:09 | きょうの一句